雞知浦に張り出す半島の上に五世紀から六世紀に営まれた古墳群で、三基の前方後円墳と二期の円憤からなっています。
弥生時代から古墳時代にかけて、浅茅湾沿岸の小高い岬にはいたるところ箱式石棺墓が設けられ、対馬において伝統的な墓制である箱式石棺と本古墳群における高塚古墳(盛土をもつ古墳)との関連が注目されます。
また前方後円墳は、首長墓(地域を治める豪族の墓)ですが、対馬では本古墳群の地に、雞知浦を見下す丘陵にある出居塚古墳(鶴の山古墳)が知られています。
当地区に首長墓が集中分布していることは、雞知浦付近が「日本書紀」にある「対馬県直」一族の本拠地として重要な位置にあったことを物語っています。